2011年10月29日

earthrise2064

kyo ichinose の5th album『earthrise2064』を聴いた。
http://ototoy.jp/feature/index.php/20110122
http://www.amazon.co.jp/dp/B004EHJF42/

楽器音/電子音/具体音を融合させた聴覚表現をする作家。
... 音楽大学で一年先輩だった方というご縁があるので「一ノ瀬響さん」とか「一ノ瀬さん」といった書き方もあり得るのだろうけれど、私の中には「表現者ってものを文字にするときは芸名/フルネームで呼び捨てでしょ」という思い込みがある。この思い込みはかなり強烈で、とくに、ファン界に「名字」+「サン」の呼称を確立しちゃった福山サンや堺サンのような芸能人が半端モンに感じられ、たとえジャニーズ所属でも香取慎吾なる名のほうが、さらには、モーニング娘。出身であっても中澤裕子なる名のほうが立派に感じられるほどである。よって、その作家がペンネームとして小文字のアルファベットという形が選んでいる以上、その表記にならうのがひつぢゃうなのである。

で、kyo ichinose の『earthrise2064』。
蒼いクリスタル調の美しいジャケットデザインに、少し緊張しながら中身を聴いた。
私は「輝くオブジェ」をみると、そこに惹きつけられるものの、近寄ってみると「光の反射」の流れに押し戻されて、その内部に入っていけないのではないか、という不安感におそわれるたちだ。だからギャラリー・モリタでよく展示のある小林健二の作品も、あんなに美しいのに、その光の反射にちょっと苦手意識を覚えたりしがちなのだ。
http://www.g-morita.com/html/movie/crystalelements.html

しかしながら、おそるおそる聴いてみた『earthrise2064』のコンテンツは、私を押し戻さないでくれた。
おさめられた10曲の尺は、1'15 から 9'49 までバラバラで、個別に「この曲は」「あの曲は」といった感想をもつよりも、アルバム全体の通し聴きの中で、耳と背骨と腰椎が少しずつ変わっていくのが楽しめるような、そういう通し聴きのために最大限、時間デザインの配慮がなされているアルバム。かつて同じ作家の1st album「よろこびの機械」を、音楽大学で習ったような芸術音楽の「1曲ごとに完結していく聴き方」と別の次元が開けていくことに大きな喜びを感じながら聴いたのを思い出す。
同じ日に届いたサカナクションの『DocumentaLy』なんかの場合は、まだ1曲買いもありえるアルバム(もちろんシャッフルしちゃ駄目だが)なのに対し、『earthrise2064』のMP3は、単発ダウンロードのオプションは、ナシだと思うよ、Amazon。http://goo.gl/cwNyH

ヴィオラふうの音が聞こえてきて、「うわっ楽器で旋律?」と思いかけた第5曲《Longings and Gravity》では、旋律の残響感をそのままホワイトノイズみたいに重ねていったり、その入り交じった音がいつのまにか消えてヴィオラ1本に戻ったりする肌理の変化が楽しかった。

『よろこびの機械』では、楽器音と電子音の組み合わせが印象的だったけれど、『earthrise2064』では、これら2者に加えて具体音が印象的で、具体音の聴き方については、第2曲《Before the rain》のところで一瞬、自己変革が生じた。木琴の連打と、エレクトーンの和音の満ち引きの中に、女声の呼びかけがあって、楽曲の最後のあたりに、水の流れる音(いやもしかすると全部電子音かもしれないけれど)が入ってくる時、その波の音は、いわゆる「音の意味と外形の両面をそなえて」という状態ではなく、「音の外形」が純粋にカパカパカパとリズムを刻んでくる。

「音と映像の現在形」シンポジウム×上映会

「音と映像の現在形」と題して、下記のとおりシンポジウムおよび上映会を開催いたします。
多数の皆様のご来場をお待ちしております。

* 会場 西南コミュニティーセンター
* 会期 2011年11月6日(日)~7日(月)
* 入場無料/申込不要
* シンポジウム 7日(月) 13:00-15:00
  o 韓成南氏(映像作家・記号学研究)
    http://www.jonart.net/
  o 中村滋延氏(作曲家・メディアアーティスト)
    http://www.design.kyushu-u.ac.jp/~sn/
  o パップ・ジリア(アニメーション研究)
    http://www.waseda.jp/rps/irp/voice/2.html
  o [司会] 栗原詩子(音楽学・映像学)
* 映像上映 6日 12:00-17:00  7日 10:00-16:00
  o 韓成南・中村滋延・黒岩俊哉・早川貴泰・高山穣・松山豊・古田伸彦・森内暢・青
木一生 他
[主催]西南学院大学国際文化学部
 [後援]日本映像学会西部支部
 [問合]栗原詩子(utako@seinan-gu.ac.jp/092-823-4424)

2011年10月27日

大学院設置基準の変更?

修士号に修士論文を必須としない方向性を文科省が打ち出したという。
学問の多様化する今日、おそらく、専攻分野によっては、修士論文のようなサイズでの学術到達度チェックが、文字通り「無駄」「邪魔」になる分野もあるのだろう。
 
しかし、こうした方向転換を説明するにあたって、よりにもよって「産業界からの指摘」というようなことを文字化する“感性"に疑問を覚える。
論文を書いてきた大学院生が「使いにくい」なら、その産業はその人材を採用しなければよろしいのであって、そういう愚痴を、学位制度の変更の理由にしてはならない。
こういうことを書くのは、日経記者の感性なのか、文科省職員の感性なのか?
http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819695E0E4E2E6EB8DE0E4E3E2E0E2E3E39180EAE2E2E2

2011年10月23日

お出かけクラシック(毎日10月22日夕刊)

せっかくブログお持ちなんですからどんどん掲載しちゃって下さい、と記者から言っていただいたので、今月分をコピペ。

2009年にデュトワの「兵士の物語」で実施された第1回以来、旬の演奏者と魅力的なプログラム内容を低価格で提供している「アクロス・アフタヌーンコンサート」のシリーズ。筆者はウィークデーの14時からという開催枠に地団駄ふんできた1人だが、今回はいくつかの偶然が重なって、ブリュッセル出身の精鋭「ダネル弦楽四重奏団」の演奏を聴くことができた(10月11日・アクロス福岡シンフォニーホール)。
クラシックの演奏会では、開始1本目の演奏がベタリと平板に響くことが、よく起こる。客席空白のリハーサル時と満場の本番とでは、ホールの残響が大きく変化し、ステージ上の演奏者は本番で、自らの「音」を異質なものとして意識してしまいがちだ。しかも、そこに集まった聴衆の息づかいが、音楽の傾聴へと収斂していく前に「音」が発されると、その異質性は一層増してしまう。演奏前に、マイクを通して「日本の皆さん」への挨拶トークをしてくれたけれど、ああした観客サービスもまた、演奏の勘を狂わせたかもしれない。
序盤のヴァインベルク「アリア」では、そんな残念な思いを抱かせたものの、シューベルト「ロザムンデ」の第2楽章、そして休憩をはさんでのラヴェルは、文字通り見事な演奏だった。雲母の切片を思わせるマルク・ダネル(第1バイオリン)の繊細な音の粒を、丸みのあるギー・ダネル(チェロ)のバスが支える。
付記するならば、この充実した聴体験は、弦楽四重奏以外の楽器を交えない洗練されたプログラミング(選曲)にも支えられていた。これがもし、地元のピアノや木管などの演奏家と組み合わせ五重奏の曲目を交えることで、「聴きやすく」「集客のよい」企画であったら、同質の楽器ばかりで編成された弦楽四重奏そのものの「音」の明暗は、これほど伝わってこなかっただろう。
九響第311回定期(9月29日)は、デュリュフレ(1902-1986)の「レクイエム」。オルガン伴奏版、弦楽合奏伴奏版、管弦楽伴奏版など、いくつかの楽譜が刊行されているが、今回はハープ、チェレスタ、オルガン、タムタムなど多様な楽器を配した、もっとも贅沢なバージョンでの演奏が、秋山和慶の指揮で実現した。八木寿子(メゾ・ソプラノ)は、ピアニッシモからフォルテまで、どのダイナミクス(音量)でも、低音から高音まで、どの音域でも、滑らかで豊かな響きを聴かせてくれた。
また、九響合唱団による第7曲ルクス・エテルナ(永遠の光)の加算リズム的な朗唱は、鈴木隆太(オルガン)の繊細な音運びも相俟って、同時代のメシアン(1908-1992)の音楽語法を思わせる演奏となった。歌詞の上で、ディエス・イレ(怒りの日)の代わりにリベラ・メ(私を赦したまえ)が焦点化されている共通点はあるが、一世代前のフォーレ(1845-1922)の若書きの「レクイエム」と比較することは、もはや不要に思える。

お薦め演奏会
◆バレエフェスティバル2011 10月30日13時、アクロス福岡シンフォニーホール。
オーケストラの仕組みを、踊り(振付:中島伸欣ほか)と九響の演奏で、わかりやすく表現する。曲はブリテン「青少年のための管弦楽入門」。
◆ユリアンナ・アヴデーエワ(ピアノ)リサイタル 11月1日19時、アルカスSASEBO中ホール▽11月3日14時、鹿児島県立みやまコンセール。1985年生まれ、昨年の第16回ショパン国際コンクール(ショパン生誕200年)の優勝者。輝くリズムと躍動感は1965年の優勝者アルゲリッチの優勝当時の演奏を想起させる。曲目はプロコフィエフ「ソナタ2番」、リスト「悲しみのゴンドラ」など。

2011年10月13日

感想(9月29日の九響定演)

どうみても「フランス三昧」という趣旨のプログラミングだったが、タイトルはなぜか「オラトリオの世界」。
ラヴェル/バレエ組曲「マ・メール・ロワ」
デュリュフレ/レクイエム 作品9
ショーソン/交響曲 変ロ長調 作品20

なんでこういうタイトルになるのかを勝手に推測して解説しますと、デュリュフレのとても綺麗なレクイエムをやろうと思ったら、なんか楽器編成が派手になっちゃって、いっそのことハープとか使う曲目をいろいろつっこんじゃえ、という選曲プロセスだったので、編成には力入れたしお金もかけました、ということが「オラトリオ」という単語に表現されているのデス。

このタイトルの下にくっついていた惹き句は、タイトルよりも更にパワフルであった。
「フォーレの名作に匹敵するデュリュフレ「レクイエム」の天国への昇華」
これはなに?
演奏会の魅力を伝えたがっているようには到底思えない。

指揮は秋山和慶。
マメールロワはベタッとしているように思えたが、レクイエムは聴き所満載。
まず声量豊かな八木寿子(Mezzo Sop.)の張りのある高音とドラマティックな低音の轟きに圧倒された。八木さんの名前をインターネットで検索したら、高本秀行さんが激賛していて、その言葉のひとつひとつに「うんうんそうだろうそうだろう」と納得した。http://blog.goo.ne.jp/piano_music/e/55501fc4842706efa0ca79bd356dd1c2
また第7曲のLux aeternaにはハッとさせられた。
この日は、とてもメシアンぽく聞こえた、というか、それは、朗唱重視で加算リズム的になっていることもあるし、鈴木隆太(Org.)の音運びがとても繊細で美しかったこともあるんだろうけれど、少なくとも、こんなに斬新で面白い表現を、フォーレの若書きのレクイエムにたとえるのはもはや不要なことだと実感した。
鈴木隆太は昨年サン=サーンスの第3番でも九響と共演した方で、この公演を聞き逃したのが、今さらながら惜しくなった。
http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kyukyo/kyukyoFiles/profile/2010solist.profile/10ryuta_suzuki.html

休憩をはさんでショーソン。
霧島で聴いたヴァイオリン協奏曲(編成はVn, Pf, SQ)の好印象もあって、とても期待していたのだけれど、なんだかうまくはまれなかった。
ウォーウォーウォーと唸る旋律には、時折ワーグナーの序曲ものが感じられ、その合間合間に「ぞうさん」の輪郭が乱入してくる。ここでの「ぞうさん」はシャミナードのフルート協奏曲よりも強烈かつ明瞭な「ぞうさん」である。
プログラムノートで、奥田佳道さんが「19世紀のフランスで紡がれた交響曲芸術の逸品にも関わらず演奏の機会に恵まれない」と書いていたが、どういうところに逸性をお感じなのだろう。読みたかったな。

2011年10月9日

様子をみる、について

金曜はさやかがグッタリして、わたしは命の縮む思いをした。
40度の熱が出ていても、キトキト笑ってグイグイ食欲を発揮するタイプの子が、おもちゃを抱えて一日ゴロンとしているのを目にするのは、たまらないものだ。

予防接種をしていないだけに「もしや日本脳炎か?」などと、いろいろな思いがうかび、授業2つと面談1つと面接試験1つを全て投げ出して、精密検査のできる大病院に連れて行こうか、と慌てふためいた・・・・が結局、投げ出すことができずに、研究室でシッターさんに看てもらい、夕方、ホームドクターに診せて、再処方を頼んだ。

ああ、あの選択には自信がない。
今回は大事に至らなかったからよかったものの、母親として、投げ出さなかったことを悔やむ気持ちもある。

今回は、鼻風邪のために木曜に処方してもらった水薬のうち、シプロヘプタジン塩酸の割合が、さやかには多すぎたために、ボーッとしていた。
そんな気がしたから、金曜のお昼は投薬をお休みしつつ、夕方まで、いわば「様子をみて」いたのだが、この「様子をみる」という行為は、基本的に「片時も離れずに」行いたいものであって、95分(授業1コ分)離れたり、40分(面接試験)離れたりしながら、「様子をみる」のは、さやかに申し訳ない。