2010年1月31日

新生児

このまえの月曜日、指の長〜い3084グラムの女の子が生まれた。
入院中に沐浴やおむつのケアなど習って、昨日退院。
かわいい。息をして眠っているだけで、すばらしい。

「十月十日」というから310日かかるものなのかと思ったら、
実際には赤ちゃんの誕生までには40週間(280日=9ヶ月10日)しかかからない。
旧暦・新暦のタイムラグ、ということなのかなと思うんだけれど、
1ヶ月早く感じられる素敵な「こんにちは」。

視界というもの自体が存在しなくなるような痛みを通り抜けた瞬間に、医師が発した言葉。

それは
「はーいよしよし、じゃ、退院は土曜日ねー」
この、あまりに事務的な言葉の中に、プロの現場のスゴ味があった。

2010年1月19日

ノート 2010年1月中旬

2010年1月18日

人質にとられる感覚

母が歩行中に交通事故に遭った。
腰3カ所・脚2カ所の骨折が循環器を傷つけるおそれがあったので、地元の救急病院から、より大きな大学病院に運ばれた。
認知症のため事故にあったことの認識がすすまず、ベッドで点滴を受けることや周囲を看護師が動き回ることにひどく抵抗している。
17日午後からは拘束具をつけたということで、17日夕方に事後承認の形で制御同意書のサインをせざるを得なかった。

拘束具が、看護師の方の現実的・緊急的な判断において、やむをえないものだったことは、頭ではよくわかる。しかし、肉親のああした状況は、やはり苦しい。せめて魂の抵抗を示して、同意書にサインしないでやればよかった、と後悔する。

私は、気の強い女だ。
思いついた時点で、自分でもにくたらしくなるぐらいの台詞を構成できてしまう。
「処置の時点でご連絡がなかったのですから、
 私の同意などなくても同じなのでは?
 事後承認で書類を作成する意味がわかりませんが・・・」
とつっぱねて
書類にサインしないでいることも、たぶんできた。
今回の場合、拘束具をつけたのは「午後になってすぐだったかと思います」という説明であり、面会した17時過ぎまで、私の携帯電話には、1本の連絡もなかったのだ。「便りがないのは良い便り」ではなかったのだ。

しかし一方で、入院患者の肉親は「家族を人質にとられているも同然」ということがある。本人が看護師に愛想良く接する知恵をもたない今、せめて家族が、看護師の方々と友好的にふるまうことでフォローしなければ、よりよいケアを得られるという気がしない。それで、辛い説明を受けても愛想良く対応し、納得しきれたわけではない事後承認の要請にも、つい従ってしまう。
ホイホイと相槌をうって、何でもサインしてしまう。
そして、あとで後悔し苦しくなる。

本当にチョー細かくて、いわば「うざい」ほどに綿密なインフォームド・コンセントの書類は、救急医療においてどれほどの意味があるのだろうか。
「今はこうせざるをえない」という形でなされる専門家の説明を前に、では「同意しません」という選択肢は、いかにして現実味を獲得するのだろうか。
ふと、セキュリティ・ソフト更新時の「同意します」ボタンを思いだしてしまったりする。

今回は、事故対応のあいだじゅう主人が一緒に居てくれたので本当に助かった。
本気のトラブルの時に、自分と同格で判断や行動をとってくれつつ、しかもこちらを気遣ってくれる人がいるなんていう状況は、ここ15年で初めての恵まれた環境だ。
今まではずっと一人だった分、一般的なストレスへの耐性は強いつもりだった。
それでも昨日から、瞼が頻繁に痙攣する。
そして私が慌てたり悲しんだりするたびに、胎児が異様なほど活発に動く。
心がつながっているのねぇ的な感傷はぬきにしても、実際問題としてアドレナリンやらなにやらが出まくっているのだろうと思う。
小さい赤ちゃんがかわいそうだ。

こういう時は、自分が望んでいることとその手段を絞って明瞭化しないと、対応できない。

私のとりあえずの望みは、これ以上、転院をしないで済むように、ということだ。
救急病院でCTをとり、数時間後に大学病院に転院した時には、新しい病院でCTをとりなおさねばならなかった。
体のあちこちが折れているときに、ベッドから検査台への移動は苦痛であり、検査台の上は冷たく、検査室は明るすぎる。

だから転院させたくない。
今いる病院での手術が決まるまでは、「あの患者の家族は面倒だからなー」と思われないように従っておかねば、だが、もし転院しなければならないことが決まったらあんな同意書は取り返してやろう・・・・・と無意味で無茶なことを、ぐるぐると考える。

今回味わった感覚。
家族を人質にとられる感覚。
今回ほど圧倒的な形ではないにしても、これから子供を育てていく中で、何度も味わうだろうと思う。
保育所で・・・幼稚園で・・・小学校で・・・中学校で・・・。

こういう感覚は、大事な人質が自分の家族でない場合でさえ、味わうことがある。
大学で助手をしていた頃、今すぐとっちめてやらねばならんぞと思われる出来の悪い仕事に接しても、「ゼミの子がいじめられちゃ困るから」とこらえて、その出来の悪い職員に愛想をふりまいたことが何度もあった。

第3次産業に携わる者として、私自身も直接/間接に、学生の親たちに、そういう思いをさせる可能性をもっている。
このオソレをよく学ぼう。

2010年1月16日

九電のメガソーラー施設着工

九電がこのほど初めて、太陽光発電所建設を設置し、パネル14,000枚の設置に着工するという喜ばしい記事。

しかし、時系列や、算出するエネルギー量の数字が、理解不能。
1年は1,066日あるとか、7年間で4325枚しか設置できないというように、読めてしまう。

  1. 完成時の発電量は、1日3000kW、年間3,200,000kW → 1年は1,066日ある
  2. 2017年度には1,000,000kWが目標 → 4325枚(=14,000 × 10 / 32)

1つめの問題は、おそらく私が「発電量」と「発電出力」の概念をごっちゃにしていることが問題なのだろうが、発電出力とはいったいどんな概念なのか?
2つめの問題は、もしかして1日1,000,000kW発電できるような能力をもった太陽光発電施設を作るという意味だろうか? その場合、日照等の条件考慮により、実際には年間3.2日分の稼働実績しか得られない、という試算なのだろうか?

だれか助けて下さい。


毎日新聞記事全文
九州電力:メガソーラー施設着工 関係者ら40人安全祈願祭--大牟田 /福岡

◇「親しまれる発電所に」 九州最大となる九州電力の太陽光発電施設「メガソーラー大牟田発電所」が15日、大牟田市新港町の九電港発電所跡地で着工した。九電の太陽光発電所建設は初めてで、関係者ら約40人が参加し安全祈願祭をした。 発電所は、ヤフードームとほぼ同じ面積の敷地約8万平方メートルに、太陽光発電パネル1万4000枚を設置する。発電出力は3000キロワットで、年間発電量は約320万キロワット。一般家庭2200世帯が昼間利用する電力量に相当し、CO2(二酸化炭素)排出量では約1200トンの抑制効果があるという。総事業費は約20億円を見込む。

 九電は、地球温暖化問題への対応や国産エネルギー活用の観点から、新エネルギーによる発電の導入を進めており、17年度に太陽光による発電量を100万キロワットに拡大することを目指している。

 安全祈願祭に出席した瓜生道明常務は「再生可能なエネルギーの活用に力を入れており、それを推進していく起爆剤と考えている。地域に親しまれる発電所にしたい」と話していた。

 古賀道雄市長は「新エネルギーを推進する施設として、高い評価が得られるよう、市としても力を入れていく。一日も早い完成を期待している」と述べた。【井上秀人】

2010年1月15日

アートトラック

楽天レンタルで、
「激突!全日本アートトラック大爆走~東日本編~」というソフトウェアを見つけた。

てっきり「アートトラック」を「芸術の足跡」の意味と思い込んで借りたのだが、再生してみてビックリ。

金銀ピカピカに装飾された「豪奢なトラック」と、
それを所有するトラック野郎たちを取材したDVDであった。

派手なトラックって、運転席に富士山描いたり、シャンデリアつけたりしているのだね・・・。そのわりに、車内にチョコボール人形を飾っていたりして、なかなか多様性豊富である。

写真状ではなく動画状になっているのは、おそらく、「エンジン音を聞け」というコンセプトなのだろうと思う。
また時折、キャリアを昇降したり、急ブレーキで停止する姿も、撮影されいてる。
おそらくコアなファンには、も〜たんまらない映像なのだろう。
表象様式の細部に意をつくし、有用性にかかわるような一切の関心なしに作られたトラックたちは、まさにアートである。

2010年1月9日

ノート 2010年1月上旬

  • Google Calendarに「ユダヤ教の祝日」が入った。世界史の多くの問題が詰まっていることを感じさせられる「祝日」集。 http://www.google.com/calendar/embed?src=ja.jewish%23holiday%40group.v.calendar.google.com
  • Life hacks
  • 日米地位協定 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/index.html
  • JSPS Monthly (学振便り) ドイツの学術関係情報 http://cz.biglobe.ne.jp/cl/Q019/8316/3201000249/2016432
  • The Times Higher Education Supplement http://www.timeshighereducation.co.uk/
  • 文化系シンクタンクへのリンク http://cpnet.at.infoseek.co.jp/link/thinktank.htmlリンク切れ訂正→再録
  • 童具館 http://www.dougukan.com/nenrei.htm
  • アリスチャイルドケアサービス http://www.alice-wakuwaku.com/
  • 日本映像学会第36回全国大会は2010年5月29-30日 日本大学芸術学部 江古田キャンパス
    テーマ:アナログとデジタル-----映像環境はどこへ向かうのか
    エントリー詳細:1月末発送予定の全国大会第2通信
  • 欧文フォントの基本設計 http://www.cinra.net/column/morisawa/morisawa07-1.php
  • 京極高宣氏の件(読売毎日)では、「引用」という概念の用い方がズレていないか。無断転載は大問題(公表権の侵害)だし、この方が主張しているように「自分の視点で書き直」せば、それも大問題(同一性保持権・翻案権の侵害)だろうけれども、今回の事態に無断引用という言葉をあてはめると「引用」概念の観点がズレてしまう。だって普通、他人の著作を参照・引用するたびに、いちいち連絡を入れるという事態のほうが異常で、「無断引用」は全然いけなくない。
  • 岡島尚志「コンテンツ/キャリアの保持と分離----映画・映像の長期保存に関する一考察」『日本映像学会報』No.149, 2010, p.2.
    岡島尚志・・・東京国立近代美術館フィルムセンター主幹。国際フィルム・アーカイブ連盟会長。
     キャリアとは、経歴(career)が転じた“生え抜きエリート”の意ではなく、運び手・荷台(carrier)のこと、つまり情報・中身(content)を載せているモノ(artifact)のことである。映画というメディアに当てはめれば、コンテンツは映画の写っている内容、キャリアはフィルムということになる。(中略)映画のコンテンツを長期にわたって保存するには、主として二つの方法「保管と転写」がある。再び言葉を整理しておくと、「保管」とは、低温低湿環境などを整備してコンテンツとキャリアを切り離さず一体のものとして維持し、可能な限りオリジナル(preprint element等)の延命をはかることである。「転写」とは、コンテンツを別のキャリアに移し換える作業で、内容・情報の移動先は同じ35mmフィルムであったり、他のデジタル情報ファイルであったりする。別の言い方をすれば、受動的な保存が保管で、能動的な保存が転写である。英語の動詞に対応させると、保存はpreserve、保管はconserve、転写はduplicate/transfer/migrateなどとなる(転写は複製化といってもよい)。さらに、能動的保存の積極的・集約的・徹底的な作業形態が、修復・復元(restore)ということになる。
     2009年に映画としてわが国初の重要文化財指定を受け、フィルムセンターに保管されている「紅葉狩」は、九代目団十郎と五代目菊五郎を1999年11月に撮影したコンテンツとしては111年前の「もの」(無形)であり、ナイトレート・デュープネガの形式で現存するキャリアとしては1927年に転写複製された83年前の「モノ」(有形)である。111年前の日本・日本人、そこにあった2度と繰り返すことのない時間が83年前に製造された情報キャリアに載って今も残っていることの感動をかみしめつつ、われわれは今後もこれをコンテンツ/キャリア一体で保管し続けるだろう。一方で、そのコンテンツはデジタル・ドメインにも転写され、ミクロレベルでの倫理にも慎重かつ誠実に気を配るアーキビストらによって、写真化学的限界を超えた高品位の修復・復元処理を施され、多メディアによる利活用の可能性を拡げていくに違いない。アーキビストは、その作業全ての技術的行程を、映画史的来歴の詳細とともに記述し、公開と継承が可能なメタデータとして残さなければならない。
        (中略)
     「デジタル情報の長期保存には定期的なマイグレーションしかない」と言い放つ人々は、それがどれほど深刻なことかわかってはいない。いや、分かってはいてもそれは自分たちの責任ではないと考えているのだろう。事実、光ディスクの持続性に関して問われたある企業の社長が「安く小さく速くを目標に技術開発を行ってきたが、われわれ技術者は1度も長く保つものを開発してほしいとは言われてこなかった」と発言するのを聞いたことがある。彼らは技術者・科学者あるいは経営者であって、保存をする人々ではない膨大なデジタル情報の長期保存に、一体、だれが責任をもち、だれが必要な資金を負担するのか。これは全世界的な大問題ではあるが、残念ながら、そのようには認識されていない。
     最新のメディアレス・アーカイブ構想や、地球に偏在する原料を用いて開発されるであろう劣化がきわめて緩慢な“千年保管素材”の研究などは、知れば知るほど興味深いが、残念ながら、そうした技術だけでは真の長期保存が実現できないことを私は経験上確信している。必要なのは、夢の技術を正しく運用するアーキビスト(人)とアーカイブ(場所)であるという当たり前のことが、この映像大国でもっともっと議論されなければならない。
  • お弁当箱(ランチボックス)品番=タイガー魔法瓶LWY-C,F,L,E 相談窓口=0570-011101
  • お気に入りレシピ

2010年1月6日

西日本新聞に出た記事2

学院長の教職員向け通達によれば、例の西日本新聞の記事内容は「学院から西日本新聞社へ提供したものでは」なく、「この記事の内容は、大学の各委員会や教授会で検討をお願いし、協議の緒についたばかりの課題」であって、理事会では今回の記事については「西日本新聞社へ遺憾の意を表すことを決定」したそうである。

だが少なくとも「法人首脳」が新聞記者に何かしゃべっちゃったことは間違いない。
部下に向かって、事実はああですこうですと言い訳したり、新聞社に対して漫然と「あれ書かないでほしかったんですけど〜」とか言っている場合なのだろうか。
情報の影響からみれば、訂正広告なりなんなり、対策を練ってくれないと・・・。
もう全国的にいろいろ拡がっている。

で、理系併設のことであるが、うちのような都市型キャンパスの私立に期待できる実験施設など、たかが知れているし、学費だって、高騰するだろう。連合教授会に「理系学部を」の構想が発議されるときに、よく「西南学院高校の半数が理系学部を志望している」という点が指摘されるが、「その時に語られる理系学部とは私立の理系学部なのか?」という点が全くクリアにされていない。

上記の記事で一番気になるのは、発言として引用されている内容──────「受験生は大学をブランドで選ぶ傾向が強い。学部新設で大学の魅力を多角的に増やす必要がある」──────における論理性の欠如である。第1文と第2文がどうつながるのか、まったく見えない。選択肢としては、
  • IT学部(環境学部)を作るとその大学のブランドがあがる、というセオリーがあるので、うちもブランドをあげるために是非IT学部(環境学部)を!
  • うちのブランドは低いから、学部新設とかそういうニュースに載らないと大学の魅力をアピールできない。
  • うちはブランドが高いから、学部をドカドカ新設しておけば中身なんかなくても集まってくる連中はいる。
さあどーれ? 

わからないと言えば、そもそもこの期におよんで「時代の流れに合った」という表現も、全く理解不能である。ITだの環境だのという学部名をたてるのは、さんざん環国人情と揶揄されて、もうとっくに時代遅れなのである。

おむつの疑問

布おむつが健康的という説と、紙おむつが清潔という説があって、ちょっと迷いながらも、義母の薦めもあって布おむつを準備した。
せっかくなので、手入れにお酢や重曹で洗う方法に目をとおしてみたのだがが、エコ系家事の解説書や体験記事というのは、肝心の所でどうも曖昧だ。化学洗剤を使うよりも「すすぎ回数」を節約できるというが、そのために使うのが「水5l+酢200ml」だなんて、エコロジー的にどう喜ばしいのか、全くわからない。
おむつライナーを使えば更にすすぎ回数を減らせます、という体験談もあるんだけれども、でもそうすると、お肌にふれる部分が紙おむつと同様なわけだから、布おむつにした意味がなくなるのではないかしら。
混乱! 混乱! 誰か助けて下さい。

2010年1月5日

セキュリティ対策

インターホンが鳴って「電気の検針なのでオートロックの解除を」と言われた。

とっさに「消防署の方から来ました」のパターンを思い出し、
「管理会社に電話して下さい」と
閉め出してしまった。
寒空の中を・・・・。

疑い深すぎるかもしれないけれど、
ここは二重ロックのかかるマンション。
荷物を持っている日など、ちょっと不便(面倒)な想いをしながらも
それでも「セキュリティだったら仕方ないか」と思って、我慢している。
その日々の中、「検針です」の一言でドアを開けちゃうなんて、
バランスが悪いと思うし・・・。

でも「ハイでは他のお宅にお願いしますんで」と受け流された。

集合住宅のセキュリティ対策って難しい。

2010年1月4日

西日本新聞に出た記事

1月3日付で新聞1面に「総合大学化でブランド強化/西南大に理系2学部/定員計500人 環境・IT軸に」という記事が出た。巻頭文には「文系理系両方の学部をそろえる総合大学に発展させる方針であることが2日、分かった」と書かれている。この記事の執筆者は、河野潤一郎さんという方で、引用表記が用いられている部分は以下のとおり。
  • 「時代の流れに合った文理総合の学部にしたい」(同法人)
  • 同法人首脳は「受験生は大学をブランドで選ぶ傾向が強い。学部新設で大学の魅力を多角的に増やす必要がある」と
こうした発言集をみるかぎり、理事の誰かが、ちょっと言ってみただけの内容にしか見えない。1月2日に記者会見が行われた可能性も低いと思うし、新年会かなにかでのお愛想発言ではあるまいか。

理系学部の新設については、学外コンサルタントの発案の中に毎度あらわれる。こういう単純なビジョンは発案しやすいし . . . . .。でも、まじめな議事としては毎度明瞭にハネられまくっている。連合教授会では、「環境」「IT」をキーワードとする学部構想の議題は挙がっていないし、この前、ちょっと似たキーワードで議題が出た時には明瞭にハネられていた。

記事はこの後、執筆者を変えて「解説」という項目に続いており、そこには「西南学院大が理系学部を新設して総合大学となれば、九州の私大再編の引き金になる可能性もある」と書かれていた。
ハイ! もちろん可能性は、いつだって無限だと思います。

私は社会情勢には常に疎い。だから読み手としては素朴で、新聞での表記にはそれなりの責任や重みがこめられているのだと思い込んでいた。まして1面を使った記事ならば。

しかし、今回のことを通じて、報道界が「方針であることが分かった」とか書いてしまう時に、その言葉の重みが大したものでない、というか、ぜんぜんどうってことないし当てになんかならない、ということを実感できた。新聞というメディアが、こういう当てにならないことを曰って、それをネタに「可能性もある」とかいう表現で「解説」してしまう現実を目の当たりにした。

メディアリテラシーのお勉強において、とってもとっても有益な記事だった。